特別になりたい
以前、この拙いブログで「響け!ユーフォニアム」という作品について書かせていただいた。
この物語のサブヒロインで、「高坂麗奈」という、トランペッターの女の子が登場する。
この子は劇中、主人公に向かって、「特別な存在になる」と宣言をする。トランペットを極めれば、自分は特別な存在になれる、というのだ。
このシーンの初見はアニメ版だったが、おいらにはいまいちピンと来なかった。
変わった子だな、とは思ったが、共感には至らなかったのだ。
しかし不思議なもので、こうしてブログを書いている今、この高坂麗奈の一言が胸に突き刺さっている。
軽い熱病にうかされているような、不思議な感覚を味わっている。
なぜこんな感情になったのか、自分でもよく分からない。
今日もごく平凡な一日だった。
強いていえば、とある雑誌を読んで、ちょっとした高揚状態に入っている。
(断っておくが、エロティックな雑誌ではなく、まじめな雑誌だ!)
それでも、「特別な存在になる」という言葉は、とても魅力的な言葉に聞こえてきてしまったのだ。
こうなると熱狂の赴くまま、なすがままにならざるを得ない。
おいらは特別な存在だったのだろうか。
答えはノーだ。
確かに多少波乱めいた人生は送ってきているが、「通常」の誤差の範囲に収まるだろう。
ただし、他の人と違う視点・考え方をもちたい、という気持ちは、小さい頃から強かった。
いや、強くもたざるを得なかった。
今もそうだが、昔のおいらは特に、鈍くさい存在だった。
集団行動でなにかしようと思ったときには、すでに他の人が動いていたし、どうしようかあたふたしている間に、周りの状況は動いていて置いてきぼりを食らうのはしょっちゅうだった。
そういう状況に置かれるたびに、おいらはパニックに陥っていた。集団行動が、とても苦手だった。
しかし、社会生活を送る上では、集団の中でうまく生きていくことは必須だ。
おいらは不器用なりに、自分のやり方をいつの間にか身につけていた。
それは、全体をぐるぐると見渡して、誰も手をつけていないところを発見してドヤ顔で「おいらも仕事をしていますよ」とアピールするという、姑息な生存戦略だった。
主導権を握るには手際も悪く度胸もないおいらが取りうる、唯一の選択肢だった。
この卑屈な態度は、しかし二つの恩恵を与えてくれた。
一つは、全体の動きを見て何が足りないのかを把握する能力、
もう一つは、周りの人にあわせず独自の動きをとることができる能力だ。
この二つは、おいらの中で宝物というか武器になっている。
一番真価を発揮するのは、会議の時だ。
全体の動きを見るクセがあるから、会議の流れをつかんで足りない部分を看破することができる。
独自に動けるから、空気を読まず場の雰囲気を変える発言ができる。
うぬぼれている面もあると思うが、会議に関しては、他の人と違う目線で参加しているところは大いにあると思っている。
そういった意味では、自分の中で「特別な存在になりたい」という意識は強いかもしれない。
ひねくれた生き方をしてきたから、周囲の中に埋まるような没個性的な生き方はしたくない。
何かが心の琴線に触れて、そういう風に思わせたのだろう。
その正体はわからない。
けど、たまにはこんな雰囲気も悪くないと思う。
よく分からない熱狂を抱いたまま、家路につくのだった。